「2014年のお別れ」俺のリッチギー(完結編)

私にとって、今年でお別れとなったものといえば、

リッチギー(高木康成)の引退でございました。

プロ入り以来ずっと追いかけてきたという、初めての選手となりました。

その彼が合併騒動や故障などに苦労しながらもある程度の実績を上げ、
巨人への移籍をきっかけに別の意味でも有名になったということは
以下の過去エントリーにもあるとおりでございます。

http://d.hatena.ne.jp/drunk_bison/20110729/1311924791
http://d.hatena.ne.jp/drunk_bison/20110824/1314180640
http://d.hatena.ne.jp/drunk_bison/20110825/1314259910

結局2012年の日本一に多少貢献したのがピークとなりました。
日本シリーズは第3戦にリリーフ登板しただけでしたが、この試合では
同じ高校の後輩の増井も奇しくも登板しておりました。
まあリッチギーは負けパターン、増井は勝ちパターンで出てくることが多いわけ
ですから、こうなるのはあり得ると戦前から別の意味でwktkしていましたが。
そしてアジアシリーズ予選リーグのパース・ヒート戦ではなんと勝ち投手に。

しかし次の2013年は故障を発生し、その後は一度も一軍登録無く、
2014年は育成契約となり、リハビリを目指していたということでした。

そんな2014/8/31、静岡ローカルの番組「スポーツパラダイス」で彼の
現状の報告がありました。
そのとき既に昨年の負傷がかなりの重症で、番組オンエア時点でも
まだ全力には程遠いという状態だったので、もしかしたら今年限りで
引退もあり得るかも、という覚悟はしておりました。

そして戦力外通告の末、このような記事が。
http://blog.yasunari-takagi.com/?eid=733

復活するからには一軍レベルでないと、というのは現状でしょうね。
無論、国内の独立リーグという選択肢もあったのかもしれませんが。

プロスポーツ選手は、引退後の人生の方がはるかに長いので、
今後どうなるかについて心配していました。
特に彼の場合、当初入団した近鉄が既に無いので、後ろ盾となるチームが無い
という意味でキツイかなと思っていましたが、とりあえず巨人で面倒見て
いただけるということらしいので、ホッとしています。
ということは、今後もしかして「ズムサタ」に出演ということも有り得るのかな?
(注:ズムサタの宮本に可愛がられ「リッチギー」なるアダ名をいただいたので)

お疲れ様でした。

伊勢神宮参拝(2013/12/25)後編

申し訳ありません。後編のアップがこんなに遅くなってしまいました。これではブログのアップが遅いという西村知美さんのことを笑えません(笑)。

さて作法に従い次は内宮へ。外宮から内宮へは歩いて行ける距離ではなく、バスで行くしかありません。直通のバスもあったのですが、すぐの時間になかったため近鉄伊勢市から五十鈴川に向かいます。

そして五十鈴川の駅を降りると、ちょうど内宮行きのバスがあったため、これに乗り込み15分ほどで内宮到着。

遷宮の年とはいえ平日のはずなのにこの人出です。

境内を行くと、五十鈴川が流れているところがありました。なんとも良い風景ですね。

こういう神社の木って、雰囲気もあって神々しい感じがします。

そしてこちらが、内宮の門前町。やっぱり人多し。

伊勢名物の赤福のあんこって、こういう瓶で煮るんですね。

そしてこちらが本物の赤福。やっぱり出来立ては違います。

コロプラの話その7

というわけで久しぶりにコロプラの話題など

年末年始のクイズ企画でアイテム大盤振る舞い状態だったことで、結果
「好景気の恵みLv12」「スナイパーライセンスLv1」をゲットできました。
これを活用する方法はないかと考え、あと毎時間コロニーの監視という
真似ができなくなったため、フィールドの模様替えを敢行しました。

考え方としてはこんな感じです。
・F2以降は巨大隕石が飛来する可能性があるため、オーバークロックLv6を
 つけた状態では、現行のミサイル3+針1では対処不能になる可能性が大
・F4以降では巨大隕石が飛来した場合、一日の感謝プラが吹き飛び赤字となる。
・毎時間監視ができない関係上、レーダーは無意味なので撤去する。その分を
 人口増加とミサイル増設に充当する。
・F2の針代260プラであれば、アイテムゲットの代償として充分ペイ可能。

そのため、方針としては以下のように決定しました。
・F1F2は針のみ設置し、セレブキャッチでも良しとする
 F1F2とも針の最大数は4とする
・F3はそのままで針とミサイルを増設
・F4F5は8時台の毎日の感謝プラがもらえる時のみオーバークロックLv6を
 設置。それ以外の時間帯はオーバークロックLv6を外す。
・F6F7は従来通り最低限の設備でテーマが落ちてくるのを待つ。

フィールド1:14700人、OC6(針最大4個)
フィールド2:13300人、OC6、閑静な大地146(針最大4個)(星の目)
フィールド3:12600人、OC6、閑静な大地150(針2個、ミサイル4個)
フィールド4:11900人、閑静な大地150(針1個、ミサイル3個)
フィールド5:11200人、閑静な大地150(針1個、ミサイル3個)
 (好景気の恵みLv12、ファーストクラスLv5、スナイパーライセンスLv1はここに設置)
フィールド6:10〜100人、OC2、星降る夜空9
フィールド7:10〜100人、OC2、星降る夜空9

伊勢神宮参拝(2013/12/25)前編

この日はクリスマスでしたが、日本人の私にはそんなの関係ありませんw
18切符を使ってここにたどり着きました。日本人なら神社やろ(ラモス瑠偉調で)。

伊勢神宮への参拝は、私が小学校5年生の時以来となります。
伊勢市駅からまず外宮へ。駅前からまっすぐ行くとたどり着きます。
公の休日ではないはずなのですが、やっぱりそれなりに人多いです。

外宮の入り口近くには休憩場の建物があり、そこから庭園のようなものが
見渡せるようになっておりました。

中はといえば、小さいお社があちこちにあるという感じで、ものによって
行列ができてたりそうでなかったりという感じでした。
普通の神社のように、メインのお社がデンと構えているというものではありません。

で、神社といえば馬がつきものですが、ここにもいました。

外宮参拝終了後、伊勢といえばこれです。

伊勢うどんというものは今回初めて食しました。確かのこの柔らかさは
胃にやさしくていいわ〜、と思いました。
味付けは醤油と若干生姜が入ってた感じがありましたが、シンプルでいいですね。

予科練平和記念館(2012/9/8)

ちょうどこの当時、フジテレビ系の昼のドラマで「ぼくの夏休み」というものが放送されていました。これは主人公の兄妹が電車乗車中に突然戦時中にタイムスリップしてしまうというもので、そこで題材になっていたのが茨城県阿見町の土浦海軍航空隊でした。つまりいわゆる「予科練」があった場所です。

その地に現在では予科練の記念館があるという情報を入手したので、実際に見に行きました。

土浦駅からバスに乗って15分ほど行ったところの「阿見坂下」というバス停で下車。この日は雨が降っており、バスを降りた時には物凄い土砂降りになっておりました。この近くには「陸上自衛隊 土浦駐屯地 武器学校」というものもあり、いきなりミリタリーな雰囲気を感じさせます。

歩いて数分で記念館に到着。中に入って目を引いたのが、写真家土門拳の写した予科練生の写真です。もちろん白黒写真ではあるのですが、生き生きとした表情をした予科練生が多かったのが印象的でした。この写真は土門拳が数日間滞在して取材したものが残っていたとのことですが、終戦GHQによって廃棄処分を受けたという事実があります。それではなぜ現在残っていたのかといいますと、当時病院に入院していた人がいて、その人の私物まではチェックされなかったため運良く残ったとのことでした。今にして思えばGJといったところですね。

施設の内容については以下の公式ページのものがありますが、私個人が特に気づいた点などについて記載します。
http://www.town.ami.ibaraki.jp/yokaren/

予科練生の生活について

・寝る場所はハンモック
 揺れた時に互いの頭がぶつからないように、一人一人頭の位置が互い違いになるようになっていました。
 つまり横を見ると隣の人の足が見えるようになっているのです。
 足が臭う人が隣だった場合にはどうしたんだろうw

・制服
 予科練の制服は「若鷲の歌」の歌詞にもあるように「七つボタン」ですが、これは当初からこうだったわけではなく、昭和17年11月から人気回復のために制定したとのこと。
 当初、夏服の色は白でしたが、白は目立つためカーキ色に変更されています。

・休日
 当時は休日は日曜だけ。訓練所の外の街には「倶楽部」と称された指定休憩所がいくつかあり、1円(現在の貨幣価値で2500円程度)で飲食ができたとのこと。倶楽部の畳で昼寝をすることも可能だったそうです。

・信書類
 平日に訓練所から出す通常の信書類には事前に厳しいチェックが入ります。しかし休日に上記の休憩所から出すものについては、予科練生の本音らしきもの(笑)がチラホラあったそうです。

◎練習機

 無論、戦闘機のパイロットを養成する場所ですので練習機というものがあるのですが、これは実は木製で、日の丸のデザインの羽布がつけられていたそうです。これも戦後にGHQにより処分されましたが、1つだけ残っていたそうで、これが展示されていました。

予科練生の心情を歌った詩

 好きでなったがパイロット 娑婆の50を30で暮らす

 当時の平均寿命は50歳でしたが、戦闘機のパイロットの場合は大抵が20代で戦死し、30の声を聞くことができるのはそうそういなかったそうで、そうすると既に爺扱いなんだそうです。

◎昭和20年6月10日の阿見空襲

 軍事施設ということで、これより前にも度々空襲を受けていましたが、この日のものは特に酷かったとのことで、生々しい記録が残されていました。

特攻機

 実は特攻隊の飛行機は、モールス信号をずっと発信していたんだそうです。それはすなわち音が途切れた時が…ということなんだそうで。
 記念館に7つある部屋の最後は「特攻」という名前なのですが、練習生の全戦死者約18000人と同じ数の光が暗闇の中に浮かび上がるという作りになっており、何とも言えない雰囲気を醸しだしておりました。

そして外へ出てみると雨は止んでおりました。

記念館の左側をさらに奥に入ると、雄翔館というものがあります。敷地としては前述した「武器学校」の内部なのですが、ここには予科練出身の戦死者の遺品などが展示されています。戦死した場所は北方のキスカ島(アリューシャン列島)、占守島(千島列島)から重慶(中国)、レイテ島(フィリピン)、ラバウルニューギニアといった太平洋上の島々など、様々なところに散らばっておりました。確かにこれだけ戦線広げ過ぎたらそれだけでも手薄になるところがどうしても出てしまう、と思わざるを得ませんでした。

この雄翔館の横には、塀を隔ててこういうものもありました。

こういう歴史があったということだけは、誰しも心に留めておいた方がいいのではと思います。

戦争をしたという事実は消せませんが、どのように戦ったのかということを詳細に記録することは大事です。旧敵国(連合国)からの一方的な見方だけが必ずしも正しくはないのです。旧敵国(連合国)はこの記念館の遺品を残さず処分しようとしたのは、まさに一方的な見方を押し付けようとする意図があったに他なりません。そして先人たちの努力(もしくは運)で遺品が残り、記憶に留めることが容易になったことを、我々は感謝すべきではないでしょうか。

追悼よしえサン

実は私には、生き別れの兄がいます。
その人は漫画家の須賀原洋行さんです。

うそです。

冗談はさておき、実際にお会いしてみたらこの御方、ビジュアル的に私とソックリなんです。

話は90年代にさかのぼります。当時、少々大人向けの漫画雑誌「週刊コミックモーニング」が部数を伸ばしつつある時期、4コマ漫画としては珍しくやや武骨でぎこちない(失礼)画調の漫画がありました。哲学のようなものを題材とし、大笑いできるネタもあれば、笑えなくて少々怖いネタもある感じではありましたが、後からジワジワ来る感じのその漫画のタイトルは、

「気分は形而上」

でした。

その中に突如「実在OL」という超天然ボケキャラクターが登場します。脳ミソが「ヒューヒュー(他人の話が右から左へと抜けていく)」なために聞き間違いが凄く、「御中」を「Want you」と間違えるなんてのは日常茶飯事。無論全てが事実というわけではなく、誇張した部分も相当あったらしいですが。このネタから派生する形で「OL党」「OLの読者投稿ネタ」などが載るようになり、「気分は形而上」自体の連載も長期に及びます。

で、この「実在OL」の元となった女性こそ、後に「漫画家S」こと須賀原先生と結婚することになる「よしえサン」でした。前述した「脳ミソヒューヒュー」だけでなく、物凄い食欲という側面でもネタになるという状況で、別途プライベート部分に関してはスピンアウトする形で「よしえサン」という形での連載もスタートすることになります。もっとも漫画家Sさんの方も、結婚式の式次第を全て取り仕切り自ら司会を務めたり、日本酒にハマるあまり業務用冷蔵庫まで個人で調達するなど、かなり変な(失礼)側面がある御方ですので、ネタになるのは夫婦両方だったりするわけですが。

しばらくは夫婦だけの生活だったものの、よしえサンがついに妊娠。そのために入院したときの「寂しさ」の描写の心象風景の凄いこと凄いこと。これだけでなんと絆の深い夫婦なのかと感動いたしました。もちろん第二子の妊娠時の時には一層エスカレートした描写になっておりました。

話はさかのぼりますがそんな漫画家Sさんが、ある日ネタ整理のためにパソコンを導入し、パソコン通信というものまで開始しておりました。そこでNIFTY-Serveの「リアルタイム会議」(今でいうところのチャット)が紹介されておりました。本名以外の「ハンドル名」を使用しての会話が遠隔地の人とできるということに刺激され、早速開始しました。
しばらくしてNIFTY-Serveの「バッカス・酒フォーラム」というところに「形ぅ而ぁ上ぁ亭」なる会議室が新設されます。これがおそらく1994年の出来事だったと思います。フリートークの場所ではありましたが、カオス的な会話の盛り上がり方に狂喜乱舞しておりました。

そうしているうちに、実際にお会いしようということになり、年1回あるかないかぐらいのペースで須賀原先生込みでの「オフ会」も開催されるようになりました。そこで初めてお会いした時に「ビジュアル的に似てる」ということが、参加者のメンバーの間でも周知の事実となり、その後は「形ぅ而ぁ上ぁ亭」でもたまに「おとと(「弟」の意)」と呼ばれるようになりました(笑)。

そして一度だけ(おそらく東京の瀬田だったと記憶していますが定かではない)、よしえサン本人と長男の匠くんにもお目見えする機会がありました。無論、少しの間しかお話はできませんでしたが、ビジュアル的なイメージという意味では漫画そのものという感じではありませんでしたが(口が顔からハミ出るなんてことはもちろんありませんw)、この実物の画像を漫画という形にデフォルメした場合の雰囲気はよく出てる、という印象を受けました。

しかし、こういうパソコン通信のフォーラムという形式での交流も、21世紀に入ると次第に少なくなっていき、niftyのフォーラムそのものも2005年3月末をもって終了し、フォーラムという名のコミュニティも自然解散してしまいました。まだ一部の方々とはmixiなりtwitterなりで交流がありますが、実際にお会いする機会はバタッと減ってしまいました。

そして時は流れて2013/10/22、mixiのとあるコミュニティの書き込みを見てみると、信じられないことが…。

それはよしえサン逝去という内容でした。

そして私は、twitter上での他の方々のカキコを参考にしつつ、漫画雑誌「イブニング」を購入し、事実関係を確認した上でmixitwitterで下記の内容をアップしました。

20年ほど前の私の元気の源だったキャラクター「よしえサン」が…。一度だけ実際にお会いしたことがあります。漫画のイメージそのままではなかったですが、雰囲気は納得できた御方でした。早すぎます。合掌。詳細は本日発売のイブニングにあるそうな。
19:08 - 2013年10月22日

実際の享年までは正確にはわかりませんが、私と同世代か若干年上ぐらいかもしれません。こういう現実に直面すると自分自身も健康面には気をつけなければいけないと尚更思うようになりました。

そしてその後、以下の様な物思いに至ります。

よしえサンのクッキングダンナ」やっとゲット。静岡の街中の本屋で見当たらず、東京の職場近くの本屋で棚に並んでたのをゲット。ネットならともかくそれ以外だとニッチな漫画ってゲットしづらい…。
19:28 - 2013年12月16日

よしえサンのクッキングダンナ」新幹線の車中で読んでますが、こんなによくできたよしえサンが今はあの世とは悲しい。でも人は、肉体が死んだとしても他の誰かに思い続けられている限りは精神は生きているんだな、と思うわけで。「千の風になって」の歌詞がまさにそうなのかも。
21:53 - 2013年12月16日

他の誰かのために懸命に生きていれば、たとえ自分の肉体が滅んでも精神は生きている。この世に生きている爪跡を残すためには、そう多大な労力を費やす必要はない。他の誰かを恋愛感情でなくてもいいから思いやればそれでいい。
20:25 - 2013年12月24日

S先生の漫画の中では、天国とこの世を結ぶ「どこでもホホホドア」を通じてよしえサンはこっちに来ることができるようになっているようです。家族の心のなかに生き続けていると特例でこのドアをくれる、ということらしいです。

人の死とは何でしょう?肉体的な死と精神的な死は違うと思います。よく夫を亡くした妻が「あの人は私の(心の)中で生きているんです」という台詞を口にしますが、こういう場合、肉体的には死んでいても精神的には生きている、と言えるのではないでしょうか。たとえ夫婦とかでなくてもいいから、他人の心の中に生きるというか残るような、そういう生き方をしたい、と思います。

最後に。よしえサン、安らかにお眠りください。

日本はなぜ欧米と戦争をしなければならなかったか

中国韓国との歴史認識問題は解決できるか
http://d.hatena.ne.jp/drunk_bison/20120302/1330674435

この項では、上記の記事にある以下のことについて触れます。

4)アメリカが日本と戦争するきっかけとなったのは、真珠湾攻撃で突如日本からアメリカに戦争を仕掛けたためである。
5)原子爆弾が落とされたのは、日本は侵略国家なのだから仕方が無い。

実は日本とアメリカとの衝突は真珠湾攻撃が最初ではありません。古くは日露戦争直後まで遡ると言ってもいいかもしれません。

日本は日露戦争に「辛うじて」勝利しました。主力同士の陸戦海戦は、陸戦は辛勝、海戦は圧勝という形で一段落し、日本有利になったところでアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲立ちもあり、ポーツマス条約の締結という形で終了します。しかし戦争を行うための戦費は日本政府の歳入だけではとても足りず、主に米英からの借金でまかなっていた関係上、ギリギリでの勝利というのが正直なところでした。

ともかくこの条約により、とりあえず満州は日本の勢力範囲であると認められました。

そんな中、鉄道王ハリマンの提案による南満州鉄道の共同経営という話が持ち込まれます。日本国内では賛成派もいましたが、結局小村寿太郎などの反対派の意見が通り、この話は流れます。

アメリからしたら「日露戦争で恩を売ったのにこの仕打ちは何だ」と考えてもおかしくありません。現に日本との戦争を想定した「オレンジ計画」はこの頃から策定されたと言われています。

よって、もしこの提案を受け入れていたらアメリカから日本への「敵意」は多少は逸らすことができたかもしれません。しかしその代償として満州アメリカに食い物にされていた危険性があり、それこそ日本の国力増強の妨げになった可能性があります。満州アメリカの基地が誕生し、そこから徐々に日本の権益を侵す可能性すらあります。つまりロシアがアメリカに替わっただけということにもなりかねません。すなわち「真珠湾」が満州で起こる可能性があることを意味します。

よって、「敵意を逸らす」効果については疑問を持たざるを得ません。

何しろ当時列強とされた国々の中で、日本は唯一の「非白人」「非キリスト教」の国だったのです。そういう状況にあるというだけで「敵意のようなもの」は少なからず向けられると考えてもおかしくありません。実際、1924年にはアメリカで排日移民法が成立します。これは日本だけをターゲットにしたものではありませんが、これにより日米間に懐疑的な空気が漂ったのは間違いありません。

実際、そういう意味で「日本に対する漠然とした敵意」とまでは断定できませんが、日本とは距離を置こうという動きが、1921年の四カ国条約、ワシントン海軍軍縮会議などの各種の国際的な取り決めに現れています。これは当時の主要国であった日米英仏の間での軍事力に制限をかけて協調する取り決めです。これに伴い日英同盟は破棄となった上に、日本の戦艦保有に関しては米英の6割とするという制限がつけられてしまいます。四カ国条約という名前がついていますが、これは「同盟」というより、現在の秩序を維持することを目的とした、いわばナポレオン戦争後の「ウィーン会議」のようなものでした。

日英同盟を結んでいたイギリスとしても、本来の目的はロシアの極東への進出を抑えることであったため、それがある程度達成されていた当時は既に同盟を継続する必要性は薄れ、逆に台頭してきた日本を警戒するようになっておりました。これは同様に日本を警戒していたアメリカとの思惑が一致したと言えるでしょう。

そしてさらにその軍縮の流れを強化すべく、副次的な戦艦に対する制限もつけるというロンドン海軍軍縮会議が1930年締結されました。

一方、中国に関しては門戸開放を謳った九カ国条約が締結されます。「門戸開放」といえば美しく聞こえますが、これは裏を返せば中国への進出が遅れたアメリカにも平等に権限をよこせ、という陰謀です。しかもこの条約には以下の著しい欠陥がありました。

・かつての「清朝」は多民族国家であったにもかかわらず、「漢人による単一民族国家」と誤認されたため、漢人以外の民族(満州、蒙古、チベットウイグル等)の(独立)意志は無視された。
・九カ国にはソ連が含まれていなかったため、ソ連による外蒙古の独立および支配をなし崩し的に容認した。

そのため、日本にとっては独占的権益を持っていた山東省や福建省を失うだけの結果となり、後の満洲事変〜満州国成立までの過程はソ連外蒙古支配とは違い、国際的な批判を浴びるという不公平な結果を招きました。

そんな中で起こったのがかの「世界恐慌」です。植民地を持つ国は「ブロック化経済」で、その他の国との貿易には法外な関税をかけるという事実上貿易をしない状態となり、「持たざる国」との間で経済格差ができてしまいました。

満州進出はその打開策という意味もあったわけで、日本が国として生きていくためにはこうするしかない、というところまで追い込まれておりました。

一方、日本国内の政治的な状況はどうなっていたかというと、1930年のロンドン海軍軍縮会議が締結された結果、日本国内では軍部が反発しました。いわゆる「統帥権干犯問題」が起きたのがこの頃です。軍事という大権は天皇にあり、それを臣民が制限することは問題であるというのがこの主張です。しかし大日本帝国憲法の精神からすると天皇は立憲的君主であり、それこそ政治に直接関与するということは有り得ません。しかしこのあたりの取り決めが曖昧であったことから、政争に憲法が利用されたとも言えます。
しかしそもそもこの主張は、もし天皇軍縮に賛成していたのであれば成立しないわけです。すなわちこの問題を持ちだしたことは「天皇の意志を偽った」可能性もあるということです。

つまり現在で言うところの「シビリアン・コントロール」が明記されていなかったわけで、これは欠陥と言えるでしょう。明治時代にはこのあたりをいわゆる「元老」と呼ばれる人々がきっちり抑えていたため政情としては安定していたのですが、昭和になってからはこういった元老たちが次々と世を去っており、機能しなくなっていたのも痛かったと言えるでしょう。

結果的にこれが原因で政党政治は弱体化。軍部官僚が力を握ることになります。

そうやって暴走した軍部官僚がやったことは、柳条湖事件に端を発する満州事変であり、満州国建国でありました。当時の世界は先も言ったように世界恐慌の真っ只中で、経済的には閉塞していた関係上、こういったことが世論の支持を得る下地となっていたのが不運とも言えるでしょう。

もしifがあるとしたら、この時点で現代のような経済協力関係ができていれば、満州進出など不要だったということは言えます。

そして日本も軍事的な進出を満州国だけで止めていけば、まだ大規模な戦争になることはなかったのかもしれませんが、そうは問屋がおろしません。中国国民党の側からの挑発がそれを不可能にしました。これが日華事変です。

当時の中国国民党は意外な方法で軍備を増強していました。それはドイツとの連携による軍事技術の導入でした。資源を輸出する見返りとして軍事顧問を派遣して軍事技術を提供していたのです。一方アメリカも義勇軍と称して日華事変に参戦しておりました。フライングタイガーと呼ばれる航空部隊がそれです。

これはかつて植民地争奪戦の時代、イギリスは現地の改革派の面々と手を結び、フランスは現地の従来政権と手を結び、代理戦争を行わせてそれに軍事的にも介入するといったことを行っていました。これと類似する行為であると言えます。

日本も宣戦布告なき戦争という違反を犯してはいましたが、それなら中国国民党アメリカも同罪です。

つまり自らの国益のために軍備を増強し、侵略する行為を行なっていたのは日本だけではないということです。決して欧米諸国は何もしてないのに日本の方から牙を剥いた、ということはないのです。

よって5)も「日本は侵略国家なのだから」というのは確かにある意味では正しいのですが、侵略国家であることはアメリカも同じと言えるでしょう。